著名な細胞生物学者である筆者永田和宏教授がその考えをまとめた「知の体力」新潮新書には、もはや現在の巷では言う人がいなくなった、大学や学問、また高等教育機関の本来の意義がまとめられている。
◆大学と高校までの教育の違い
大学とはなんだろうか?昨今の大学はより一般大衆化が進み、本来の意義や価値が失われている。高校までは一方的にでも知識を与え、自分で考えるための知の基盤を構築するための期間である。それに対して、大学は自ら問をたて、答えのない問題に対峙する期間。
現在の大学に通う学生やその親御さんの頭の中から消え失せてしまった、大学の本来の高等教育機関としての意義を改めて提示している。
現在の大学は、学生に手取り足取り答えのある問題の解き方を教えるという、以前であれば高校までの教育機関が果たすべきことに終始してしまっていることに違和感を唱える。
社会に出れば、答えのない問題、対峙し方が簡単に見つからない問題に普通に遭遇する。その際に、学校のテストのような答えが一意に決まる問題に対して、どのように効率的に答えに辿り着くか、それしか学べなかった学生には、到底社会の荒波の中を潜り抜けていくことは困難であろう。
この違和感は、これまでも繰り返し過去の著名な有識者から述べられてきたものであるが、いつの間にか昨今では指摘されなくなってきたものと感じる。世の中でこの手の発言をすること自体が嫌われる雰囲気が出てきているように感じられるためであろうか。
その中であえて、著者が真理として改めて同趣旨の考えをまとめ提示したことの意義は大きいと思う。全ての人が認識・理解はできないであろうが、少なからずこの意見、考えに共鳴する人はいると思うから。
◆デジタルの言葉のやり取りから漏れる、伝えるうべき感情や思い
大学教育や研究の話にとどまらず、知識人としての話も本書ではとても興味深い。その中でも、昨今のデジタル化の流れから、若者を始め多くの人がSNSなどで瞬時にメッセージのやり取りをすることについても、考察している。
昨今の若者は、常にSNSで短文、ワードで友人・知人とメッセージのやり取りをしている。スマートフォンを通じて、リアルタイムに言葉のやり取りができる点では、効率的であると認めつつも、人間としてそうした短文のやり取りで本当に人間として不可欠な意味や実態を伝えられているのかとの疑問を呈示する。
そもそも言葉とは、不完全なものであるという。世の中のさまざまな事象、特に人間の感情というものは言葉で正確に表現などできない。世の中の実態の中でムリクリ言葉で切り取っている。一部のみを。その言葉で他者とやり取りをするが、言葉で切り取れなかった部分は、人間として感じ取る、つまり行間を読むなどの力が不可欠である。
しかし、現代の若者は、デジタルのSNSに慣れすぎ、その力がかけているのではないかと。いや能力以前に、そう下に抜け落ちる物事がある事すら、直感的にでも認識できていないのではないかと指摘している。
なるほどと唸るような見識であると本書を読み感じる。昨今、生成AIの自然言語処理が注目を集め、人間の言語操作能力や認識能力について、改めて注目が集まっている。そうした専門分野でも、言語というものの不完全さ、それを補う人間の思考能力、認識能力の重要性が高まっている。
そうした背景も考えると、細胞生物学者という異なる分野の大家であるが、やはり一流の学者はより一般化した重要な物事の捉え方ができていると感心する。
◆本書は学生に読んで欲しいが、理解できる学生はいかほどなのか
上記までに、自分自身の関心ポイントを独自の解釈でまとめたが、非常に重要な考えがまとめられていることから、ぜひ大学生に読んでほしい一冊であると言える。
ただし、現在の大学生は同書を読むことができるか、読んだとしてもその重要性を理解できるかは心許ない。そもそも200ページ程度の新書であるが、このボリュームの本ですら読み通すことができない学生が増えているやに思う。
また本書で指摘する重要な事項のまさに反対のことを地でやっているのが今の学生であろう。自分自身の今の姿、何が大切かなどを顧みることは難しいかもしれない。ただ、こうした考え方があるということだけでも、まずは知ることは必要かもしれない。
今はわからなくても、数年、社会でもまれて息詰まった時に、改めて読み返してみると、その行き詰まりを突破するための糸口になるかもしれないから。
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