量は質を凌駕する──惰性ではなく、“仕組み化”への発火点としての「量」

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億までの人 億からの人 ゴールドマン・サックス勤続17年の投資家が明かす「兆人」のマインド
2008年に起きた世界規模の金融危機、いわゆるリーマンショックは、ゴールドマン・サックスに入社してまだ1年しかたっていない僕にとって足元が揺らぐほど信じがたい出来事でした。

はじめに:量が軽視されがちな時代に

今の時代、「効率」が美徳とされ、試行錯誤の“無駄”を省くことが正義のように扱われる風潮があります。
「なるべく頭を使って、最小の努力で最大の成果を」
確かに、それは理想でしょう。でも、その理想ばかりが一人歩きした結果、「量をこなす」ことの価値が正当に評価されにくくなっていると感じませんか?

「量は質を凌駕する」

この言葉を今あえて掲げる理由は、そこにあります。ただ闇雲に量をこなすのではない。
量を通じて、仕組みを生み出す“知的転換点”が訪れるという話を、あなたに届けたいのです。


基礎作業における「量」の真価

たとえば、営業職の新人がいたとしましょう。ロープレは完璧、理論武装もバッチリ。でも、実際にお客様の前に立ってみると、反応に戸惑い、声のトーンもぎこちない。理屈でわかっていても、身体が動かない。

そんな彼が100件、200件と電話や商談を重ねた頃には、反射のように挨拶の切り出しができるようになり、相手の空気感に自然と合わせられるようになってきます。

この「自然とできる」状態は、質の高い技術やスタンスが“しみこんだ”状態です。そしてそれは、“考える”を飛び越えて“感じる”レベルに到達した者にしか得られないものです。

最初のフェーズで量をこなす意味は、ここにあります。


限界の中で芽生える「仕組み化」の思考

もうひとつ、量には別の側面があります。それは、「こんなの物理的にムリ」と思うほどのタスクに直面したときに、初めて人は「仕組みで解決するしかない」と思考を切り替え始めるということです。

たとえば私の知人に、ECショップの商品登録をひとつひとつ手で行っていた人がいました。1日で処理できるのはせいぜい30商品。ところが月に500点以上の新作が届くようになったタイミングで、「このままではパンクする」と悟ったそうです。

そこで彼は、CSVで一括登録できる仕様に目を向け、さらに商品の仕様書から登録情報を自動生成するテンプレートを自作。結果、処理件数は1日300件以上に跳ね上がり、作業負荷は1/5に軽減されました。

こういう“仕組み化”は、最初から学ぶものではなく、量に追い詰められて初めて見えてくる発想なのです。


押しつけではなく、追い詰められて見出す内発的な学び

他人から「効率化しなさい」「仕組み化が大事だよ」と言われても、人はなかなか動きません。なぜなら、それは他人事だからです。

しかし、「自分が潰れてしまいそう」「このままじゃ間に合わない」と本気で感じたとき、人は初めて内発的な“思考の進化”に火がつく

これは、受験勉強でも近いことが起こります。膨大な過去問を解く中で、「全部覚えるのはムリだ」と気づいたとき、誰かに言われるまでもなく、頻出テーマを分析して“傾向と対策”を練り始めます。これも量があってこそ生まれる“知的最適化”です。


経験から語る:量に耐えたその先にあったもの

私自身にも思い当たる経験があります。数年前、とあるクライアントから毎月20本の記事制作を依頼されていたときのこと。1本ずつ手作業で構成→執筆→リライトを繰り返していたのですが、3ヶ月目で完全に時間が足りなくなりました。

そこで私は、記事テンプレートの汎用化、キーワードパターンの分類、自動タグ付け用のスクリプトを開発。最終的には1記事あたりの制作時間が半分以下になり、内容の一貫性もアップしました。

皮肉ですが、追い詰められて初めて“考えるスイッチ”が入ったのです。


まとめ:量の経験なしに、質の飛躍は起こらない

量をただの“根性論”だと切り捨てる人は、その中に潜んでいる変化のきっかけ創造性の種を見逃してしまっているかもしれません。

大事なのは、量をこなすことで終わるのではなく、量によって思考が変わり、スタンスが変わり、自分のやり方そのものを変える「変革」が起きることです。

だからこそ、「量は質を凌駕する」は古くて新しい、現代にこそ必要な真理なのではないか──
そう思わずにはいられません。


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